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2004.10.25

稲村ガ崎とソンベカフェ その2

新田義貞は1333年に、北条得宗家を中心とする幕府勢力と雌雄を決すべく、上野での挙兵以降鎌倉までの道すがらいくつかの戦いに勝ち負けしながら、いよいよ敵の本拠へという段階にまでたどり着いたが、そこからさきが困難を極めた。
鎌倉は三方が山、残る一方は海と、自然の要塞。守り易く攻め難い。
鎌倉の中と外を結ぶのは、けっして行き来が容易とはいえないいくつかの切通しのみ。

守る側としてはこの切通しのみ塞いでいれば、鎌倉へ侵入されることはまずない。
新田軍は切通しへの侵入戦で多くの犠牲を払いながらも、ほとんど戦果をあげられす、窮余の策として稲村ガ崎を海から迂回する作戦を思いついた。
おそらく当時の稲村ガ崎も現在のように岬のような形をしていたのであろう。幕府側もこんなところから進入されるとは思っていないだろうから、その死角をつき、干潮時にわずかに露出する陸地を徒歩で渡ってしまおう、と義貞は目論み、実行し、そして成功した。
成功したといっても、多くの軍勢が波にさらわれて犠牲になったという。
この戦いこそがまさに「背水の陣」だ。干潮が終わってしまえば、もう退路はないのだから。

新田義貞の栄華は、この直後の鎌倉戦で勝利し、北条一門の多くを滅亡させたところから、京へ向かうため鎌倉を細川和氏に明け渡したあたりまで、と言ってよいだろう。
凱旋将軍として入京するが、論功行賞からしてその働きに見合ったものではなく、義貞の行く末を知ってこその見方かもしれないが、あっという間に斜陽を迎えたようにしか思えない。
後醍醐天皇による建武の新政が破綻した後、南朝の総大将の役割を担うが、大方足利尊氏には負け続け、挙兵以来一度も地元の上野に戻ることなく、1338年北陸の地で散ってゆく。(続く)

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